三代目読谷村役場
「破壊の戦争」に対する「創造の文化」のスローガンを掲げ、取り組まれた地道な村民運動はS59年~H9年(1984年~1997年)の13年間におよび、ついに米国や自国を動かし軍用地内に村役所を立てた。自治の殿堂として有名。
嗚呼!遂に村民の夢は実現した
読谷村の自治の殿堂として
米軍基地・読谷飛行場の真中に
誇らしく自信を持って建っている
お前は三代目読谷村役所なのだ
由緒ある座喜味城を腰当に、風水よく
鳳凰の鳥として建っているのだ
アメリカ軍にも大和政府にも
読谷村の主人公は読谷村民だ、と
訴え続け、闘い続けた村民の勝利だ
読谷村の自治・分権・参加が
民主主義・平和の殿堂として
村民と共に輝き
未来へ向かって雄々しくはばたけ
1997年4月
一代目役所
読谷山番所又は喜名番所と呼ばれ、現在の国道58号線沿いにあり、琉球王国時代の読谷村の行政や文化の拠点で、1820年座、喜味場内にあった読谷山番所が喜名に移り、終戦までのやく120年近く続いた。
二代村役所
第2次大戦の敗戦により、読谷村はほとんどが米軍基地となり、疎開先から帰村が許されたところが、波平と高志保の一部であり、そこに二代目村役所が建てられた。
現在は、その跡地に村立図書館が建てられている。